2007.08.18

僕が少年だった頃(25)-夏休み


小学校の頃、ばあちゃんに会いに行くのが僕の夏休みでした。

両親とも栃北といわれる黒磯市(現那須塩原市)の出で、毎夏独身の叔父の車に乗って田舎に帰って半分父方、もう半分は母方の実家ですごしていた。

実家に着くと立てひざついて囲炉裏のそばにちょこんと座っているばあちゃん、「遊びに来たよ」という言葉と同時に大皿に盛ってある漬物を端でつまんで差し出す。
小皿なんて無くて手を差し出してそれを手の平に受ける。
山間部の合間に田んぼが広がり、用水路にはどじょうが住み、ぶよにたかられながらのどじょう掬い。
年上のいとこのバイクの後ろに乗せてもらい、遊びに行った那珂川や余笹川。
河原は今と違い大岩なんかも点在してた。そこから飛び込んだりする川ガキにあこがれたりもした。
魚もまだ多くてやすやもりで突いたりすることも出来た。
釣り人が「邪魔だからどけよ」なんて言うことも皆無だった。
街灯ひとつ無く、線香の灯を目安に歩いた夜の墓参り。
土間の脇にある風呂には皆の目が有ってなかなか恥ずかしくて入れなかったり、表のぼっちゃんトイレは子供には巾が広くて入りづらかったりしましたが、小用を足しながら見る満点の星には感動しましたね。
天の川を初めて見たのも田舎に来てからだった。
裏の小さな流れには小魚や沢蟹が一杯いたし、そこで冷やしたスイカも格別な味でした。
茗荷の入った味噌汁、旨かったな~。
大して旨いものを食べているわけではないのですが、米が旨いので何を食べてもおいしく感じました。

中学に入ると部活とかで忙しくなり、足も遠のいてしまい、高校生になると更に行かない。
ようやく免許を取って、自分で運転していけるようになるのですが、その頃に祖母もなくなりました。
両祖父は戦中に亡くなっているので、写真でしか知らず、祖母が居なくなると田舎で有って田舎でなくなります。

この夏、久しぶりに田舎を訪ねて、いろんな子供の頃の思い出が昨日のことのように蘇りました。

土地の女の子を好きになったとか、そういう甘酸っぱい思い出は皆無です。
残念ながら。

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2006.07.13

僕が少年だった頃(24)-男子校

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引越しをした先、近くに県立の高校があります。
県立高校なので男女共学、通学の様子はカップルでと言うより女の子同士とか男子のみとかそんな様子。
帰りの方は見ていないので分かりませんけどね。
僕が通っていたのは、千葉県の某私学の高校。
県内でも有数の進学校に入る学校なのですが、残念ながら男子校。(最近中等部から女子も入れるように鳴り、共学化が進んではいるらしいですが)
ラグビー部に所属しているのだけれど、当時の予選は県内をいくつかのブロックに分けてそこから2校が本戦に進む仕組みになっていました。
4~5校がブロックにいるのだけれど、うちの高校を除いて皆県立の共学校。
当然ラグビー部には女子マネージャーなる人がいて、コレがまた羨ましい存在でもあったわけです。
試合中に自分のところの部員が頭などを打ち、倒れていたりします。
そうするとその女子マネージャーが優しい声で「大丈夫?」何て声を掛け、介抱してたりします。
こちらは悲しき男所帯、口々に「いいよな~、あれが青春だよな~」「やる気でるよな~」などと口々に溜息とも着かぬ嘆きが出てくるのでありました。
仮に自分の所で試合中に昏倒していたとしても足をスパイクで小突かれ「早く起きろよ」と言われるのが関の山。
まさに「月とすっぽん」の有様。
これらの共学校と試合をする時は、大方敵陣のグランドで試合をする事が多かったと記憶しています。
当時僕は100mを12秒そこそこで走る快速WTBもしくはハードタックルが売りのフランカーと言うポジションにいたのですが、WTBの時はグランドの脇に応援に来ている女子高生から黄色い罵声を散々浴びせられたのでした。
ボールを持てば「キャー転べ~~~、」「落とせ~」
ガツンと対面にタックルを入れれば「バカ~」「何て酷いことすんのよ~」
ライン際に立っているので、この黄色い罵声が目の前から聞こえてくるわけで、妙に悲しい気分にさせられましたア。
まぁ逆に悔しいので対面に八つ当たりでコレでもかとタックルしまくりましたけどね。

15歳から18歳の多感な頃、やはり共学で男女の間の細やかな機知は学んでおくべきだと思います。
甘酸っぱい思い出が全くその時代に、欠如していると、その後の恋愛への考え方やありように多大な影響が出ると。
細やかな感情の起伏が読み取れない。
中学の時に多少なりとも恋愛の感情があったにもかかわらず、高校の3年間それが全くなくなりました。
たまに紹介されたり、好きになった娘もいたのですが、風邪を引いたピノキオの如く、やることなすことギクシャクとして不自然な動きと会話。
とても見られたものではありません。
当時恋をしていた人に電話をするのですが、何を話そうかなんてメモが電話の横にある。
懸命に話題を拾っているのですが、そのメモが風に飛ばされひらひらとまって行きます。
携帯も子機も無い時代、会話に困って後が続かず・・・「じゃぁ」、と電話を切る。
言いようの無い挫折感。
普段から女子生徒と話でもしていたらもっと気の利いた話も出来たろうにと・・・。
その意中の人が自分の学校の文化祭に呼んでくれて、一人で行くのもなんなので、男3人連れ立っていった時のこと。
迂闊にはしゃいでいる僕が学校を案内してもらったり、有頂天気分で今後のワクワクする展開を期待しつつ「今日はどうもありがとう、また電話してもいい?。」などと言ってその娘と別れる。
せっかく来たのだからと3人で校内を歩いていると、その彼女が彼氏らしき人と歩いている時にすれ違う。
迂闊にはしゃいで簡単に落ち込む、開高さんがよく使っていた言葉ではあるのですが、まさしくその状態。
すれ違い、通りすぎた時に真ん中で一人うつむいているのが僕一人。
あちらのカップルと両脇の友人二人は振りかえって軽く会釈。
気を落とした僕を励まそうとこの2人が連れて行ってくれたのが、別の共学校。
歩く人たちは皆カップル、さらにツンノメル僕をさらに連れて行ったのが北の丸公園。
芝生の上で膝枕なんかしているカップル多々・・・・さらにドヨ~ンと落ち込みます。
2日間学校を休みました。
後で知ることとなるのですが、先の彼女一緒にいた彼とはそんなに時間も経たない頃お別れしていたそうです。
自分で完全に振られたと思っていましたが、幾数年後その人から今度結婚しますという連絡を頂きました。
その時の会話で「いや~振られちゃったし・・・。」と言うと帰ってきた言葉は意外な答え。
「だって何も言ってくれなかったじゃないですか・・・・。」


共学に通う生徒さんたちを見ると、たまに思い出す少年だった頃の苦い思い出。

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2006.05.19

僕が少年だった頃(23)-東京タワー

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僕が少年だった頃、町工場に勤める親父がよく連れて行ってくれた場所は限られていて、まずは皇居、上野動物園、近くに親戚が住んでいた羽田空港、そして東京タワーだった。
栃木の田舎から集団就職で東京に出てきた親父、同郷の娘を嫁にもらい家庭を作る。
工場の休みの日に僅かながらの小遣いを持ってパチンコやら近くの競艇に行くのが唯一の趣味だった。
物心つく頃にはよく親父についていって競艇場にも行った。
どうみても裕福そうに見えない親父に帰りの電車賃もすってしまったと100円せびって帰るオケラ虫。
子供心にその姿を見てギャンブルはやっちゃいかんと思ったものでした、おかげで競馬・競艇・競輪はやらずにいます。
パチンコ屋にもよく連れていかれ、自分でもパチンコ台の前に立ちたくて床に転がるパチンコ玉を拾っていたところ店員さんに見つけられ、親父も厳重注意。
それじゃまずいだろうとそれっきりパチンコ屋にせがれを連れて行くのはやめたようです。

家族で楽しめるような趣味があった訳ではないので、結局地方出身の親父が連れて行ってくれたのは、いわゆる東京見物だったのかも知れません。
家族で旅行と言うのも工場の社員旅行に家族で便乗していたような。
バリエーションも無く同じところを何遍も行っていたという記憶が残っています。
先日のロングランを記録し全国で270万人もの人が見た「ALWAYS 三丁目の夕日」に東京タワーが象徴的な意味合いで使われていますが、親父もああやって土手の上から出来つつある東京タワーを眺めていたんじゃないだろうか。
廻りに何にも無いところにどんどんと高くなっていく東京タワーを見て、家族が出来たら皆で行くんだとか考えていたのかも知れません。
やはり工場の仕事が終わった夕暮れ時、夕日を背に見える東京タワーが見えていたことでしょう。
愚直なまでに不器用に、こつこつとくそ真面目に、時代から取り残されようと家族の為に親父は働いた。

さだ まさしさんの歌で案山子と言う歌がありますが、その中でとつとつと我が子を心配している親父の姿が描かれています。
元気でいるか 街には慣れたか
友だちできたか
寂しかないか お金はあるか
今度 いつ帰る・・・・・・・

中略

手紙が無理なら 電話でもいい
「金頼む」の一言でもいい
お前の帰りを 待ちわびる
おふくろに聴かせてやってくれ・・・・・・

親と言う物はいくつになっても子供が心配なようです。
色々迷惑をかけてばかりの親父に言われた一言。

「俺には、何にも返さんでいいよ、
その分、自分の子供に返してやれ。」と。

とーちゃん、あなた譲りの不器用さで何とか生きてます。
ただ僕にはあなたの愚直さが足りないようでした。
生まれてこのかたやったことの無いキャンプ、孫と一緒に行きたいと言っていましたね。
今年は一緒に行こうかね。
なんだったら釣りでもしようか、でも魚釣りは苦手でしたね。

また~東京タワーと思っていた少年の頃、今では東京タワーの見える景色が無いと今一落ち着きません。
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2006.05.13

僕が少年だった頃(22)-交通博物館

交通博物館が閉館と言うニュースを以前聞いたなと思って、いつだったっけと思ってWebSiteを覗いて見ると、交通博物館閉館のお知らせ
平成18年5月14日(日)閉館とありました、って明日ですね。

交通博物館は、1921年(大正10)に鉄道開業50年記念事業として鉄道博物館という名で開館し、展示も鉄道関係だけでした。 第二次大戦後まもなく交通博物館と名を改め、その名の示すとおり、鉄道ばかりでなく、自動車、船舶、航空機など、交通全般にわたって、 そのメカニズムあるいは歴史や未来について興味深く学べるよう実物や模型などの展示をしています。特に観覧者の方々が、 自分の手で動かしてみることのできる機関車、電車、信号保安施設などの実物や模型を数多く展示していることは、当館の特色のひとつといえます。 また交通史料は好個の研究資料となっています。

1921年と有りますから今年で約86年にもなっていたんですね。
ここは過去に一度だけ、小学校2年生?の遠足で行った事があるだけで、もう40年近く前のことになります。
たしか一年生の遠足はバスには乗らず、近くの公園に行ったような記憶が有り、初めてバスに乗って行った遠足がこの交通博物館だったような記憶が有ります。
実物の電車や蒸気機関車、大きな鉄道模型、まだ乗ったことの無かった新幹線などに眼を輝かせた少年の僕が居たと思います。
20代は近くの岩本町に職場があり、夜食を食べによく万世橋付近に行っていました。
そのうち、また行ってみようかなと思っているうちに、月日は流れ・・・。
いよいよ明日で閉館。
行きそびれちゃいましたね、この週末は閉館を惜しんでかなり人が出ているようで、入場制限ありとの事。
後を継ぐ施設として鉄道博物館が2007年10月14日、[鉄道の日]にさいたま市大宮に開館予定だそうです。

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2006.04.10

僕が少年だった頃(21)-集団登校

娘が入園して翌日から歩いての登校が始まりました。
この地域では集団登校をしていくようです。
班長と副班長さんは5年生の男児で、その間に新入生3人と2年生・3年生各一人で皆女の子。
どうにも班長・副班長は照れくさいようです。
集団登校しょにちから防犯ベルをいたずらして鳴らしたりしたらしく、わーわーきゃーきゃー騒ぐ女の子達を引き連れていくのも大変でしょうね。

そんな風に学校へ行く娘を見て、そういえば僕が子供の頃もこの集団登校だったなと思い出しました。
当時通学経路を跨ぐように環状七号線が出来ました。
地域としては初めて大き目の道路が来たということでかなりナーバスになっていた様な気がします。
道路を横断してはいけないとか、必ず歩道橋を渡ることとか、かなりうるさく申し付けられた記憶が有ります。
登校班の班長になったのが5年生になった時で、どういうわけか近くの6年生が班長の班といつも登校時に競争していました。
6年生は「おまえは5年生なんだから、こっちをぬかすな」と文句を言っているのですが、こちらはお構いなし二抜かそうとするので、結局班長同士が競歩で競い合い、結果後の子供達が置いていかれることに気付いて、たちどまったような・・。
知り合いのお母さんに「宜しくね」と言われ、「よしっ僕は班長だ」と自覚したにも係らず・・・でした。
環七が来ても当時は車も少なかった時代で、たまに走ってくる車を見るのも楽しみだったような気がします。

下校は低学年児が一人で歩いていても、近所の商店の親父さんや地域の子供会の方が声を掛けていましたし、歩いている子供を見れば何処の誰と言うのがすぐ分かった時代。
抵抗力の無い子供に手を下すような時代ではなかった。
一人歩きさせてもそこには安心と言う文字が付いていました。
子供が学校の下校時に道草しながら、のんびり帰ってこれるそんな時代。
前にもこのシリーズで書きましたが都電脇の草むらにカタツムリを見つけて、1時間も2時間も眺めていたような子供がいても何にも起こらない。
公園や神社に子供ならではの宝物を見つけたり、下校する時には子供の世界がそこには有りました。

しかし何かが狂った今の時代、スーパーで一人離れることも、公園に一人行かせることも、下校時に一人歩きさせることも侭ならない。
我が家ではしばらく下校時は妻が学校の近くまで迎えに行くようにしました。
我が子の安全は自分達で確保しなければいけない時代、見知らぬ人と話しも出来ない時代、子供に道を聞いても答えてはくれない時代。
嫌な御時世であります。

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2005.12.16

僕が少年だった頃(20)-古川親水公園

僕が少年だった頃、通っている小学校の前には川があった。
その川沿いに歩いて右に曲がってしばらく行くと我が家であった。
その川の名前は古川。
旧江戸川と新川を結ぶ極々小さな川でしたが、高度成長という波にもまれ、そのつけが全て回されたように家庭からの汚水が垂れ流しにされていた川でした。
自転車は捨ててある、ありとあらゆるごみが捨てられ、3面護岸された小さな川は川と言うよりどぶと言った方が似合った排水路のようなものでした。
夏になると黒くタールのようになったヘドロのそこからゴボッゴボッとメタンガスが湧き出し、表面にある汚泥を割ることなく小さな輪を作るような、見るからに不気味で得たいの知れない恐怖を味わったりしました。
少年の頃の川の記憶はそんな汚れきった都市の川でしかないところが悲しいところです。
動物の死骸もあった、下水道から30cm近いようなドブネズミも良く顔を出し、汚泥の上を這い回ってまたどこかの排水管のなかに消えていきました。
野良犬が川に落ち、今ならレスキューが救助に来るかも知れませんが、あの頃はただただ見捨てられてもがきもがきタールで真っ黒になって日々時間とともにヘドロの中に沈んで行くのを見ているしかなかった。
あまりにも汚く、あまりにも臭く、そんな川に行政の手になる工事が入ります。
ようやく普及してきた下水道、区はその手始めにこの古川の地下に流れを作り、地表では綺麗な水を流し水に親しむ親水公園成るものをつくり始めました。
水は堰き止められ、底にたまったヘドロをパワーシャベルで掘ってはダンプの荷台に積み込みます。
今思えばあの時掻き出したヘドロは一体何処へ消えたんだろうと不思議ではあります。
ヘドロであふれた古川は、子供たちが水遊びの出来る古川親水公園として生まれ変わります。
小学校に通う間では、その完成を見ませんでしたが、中学の友人宅が川沿いにあったりしたので完成時にはその変貌ぶりは目を見張るものがありました。
その後区内では4つの親水公園、18の親水緑道が作られているそうです。

昭和48年、都会の中では回復不可能と思われていた"清流"がよみがえり、昭和49年5月には「全建賞」を受賞。また、昭和57年5月にはナイロビで開催された「国連人間環境会議」で紹介されるなど、国内はもとより世界各国で大きな反響をよんだ画期的な国内の親水公園第1号です。
子どもたちの水遊びに、また、花見や散歩など四季を通じてお楽しみください。
1974年完成,公園延長1200m,水源(旧江戸川)わが国初の親水公園として知られています.夏季には浄化処理水が通水され近隣の子供たちの遊び場にもなっています.護岸形状はやや人工的ながら,建設と同時に地元町会・自治会により「古川親水公園を愛する会」が結成されています。

調べてみると、わが国初の親水公園とのことでした。
そういえばこれが完成したとき、かなりにぎやかなオープンセレモニーなるものが開かれたような記憶があります。
完成した頃はもう中学生だったこともあり、この流れに靴を脱いで足を浸すと言うことはしていません。
たまに自転車で通りかかると小学校の低学年の子供たちが、水遊びをしているのを見て羨ましいなと思ったものでした。
今でもそこを通ることは有りますが、昔ほど子供たちが水に親しんではいないような気がしました。
地域の子供もあの頃に比べて少なくなったのもあるのでしょうね。
ただ記憶の川が汚泥に満ちているより、四季折々の花が咲く綺麗な流れのあるもの方が良いに決まっています。


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2005.10.27

僕が少年だった頃(19)-砂町銀座

「僕が少年だった頃」シリーズも飽きることなく19個目のエントリー。
今、住んでいるところでは味わえないのですが、商店街をぶらぶら歩くというのが好きです。
駅を降りて、自分の家まで商店街を抜けて歩いていく、魚屋が在ったり、八百屋が在ったり、惣菜屋が在ったりと、決してファッションストリートと言われるようなお洒落な街ではなくて、おかず横丁のような、そんな商店街。
例えて言うなら中野のサンモールではなくて、高円寺純情商店街の人と人の方がすれ違うような狭さの商店街が好きです。
生まれは江戸川区ですが小学校入学時までは江東区の砂町に住んでいました。
東京メトロの東西線もまだ開通していない時代、明らかに陸の孤島。
最寄駅はJRの亀戸で、都電に乗ってようやく錦糸町という、電車に乗るなんて程遠いところでした。
大きなスーパーなど有るわけも無く、砂町銀座という商店街が唯一、買い物が出来るところでした。
月に1~2回、休みの日に買い物に連れて行ってもらうのが子供心に楽しみでした。
一度、瀬戸物屋の陳列棚を倒してしまい、割れた商品の弁償をさせられたこともあり、なかなか連れてきてもらえなかったりしたので、ここに来れるとなると大喜びでした。
sunagin-map

砂町銀座商店街とは
砂町銀座の成立
戦前は30軒位の普通の商店街でした。戦争中は商店も強制疎開され戦後焼け野原の場所へ戻り始め、昭和25年~30年で飛躍的に店舗数が増えて昭和38年頃にはほぼ現在の形になりました。
砂町銀座の由来
昭和7年10月1日平和会(当時の商店会名)記念式典で城東区選出東京市会議員宇田川啓輔氏の「この通りが早く砂町銀座と呼ばれるような一大繁華街となられん事を望む云々」の祝辞を受け、その晩早速役員会を開き通りの名を砂町銀座にしてしまったのが由来です。
砂町銀座の立地
隅田川東岸から5キロ東小名木川の南側明治通りと丸八通りを東西に走る670m。バスに乗って最寄の駅まで出ないとどこへもいけません。有名な観光地もありません。それがいいと言う人もいれば、それが良くないという人もいて、評価は分かれる所。

年表を見ると、昭和38年頃に今の形になるとあり、その頃に通っていたんですね。
商店街を抜けるという感覚が好きなのは、子供の頃のわくわくした感じが思い出されるからなのでしょうか。
親父に連れられてパチンコ屋に入ったのもこの街、三輪車を買ってもらったのもこの街、日々のおかずを買っていたのもこの街でした。
この砂町銀座、廃れ行く商店街が多い中、今でも元気です。
年に数回、懐かしい匂いをかぎたくなってここに訪れています。
夕食のおかずでもと思って立ち寄るのですが、ついつい惣菜に目を奪われつまみ食い。
商店街を抜ける頃にはおなかがいっぱいと言うことになります。
交通は不便です。
近くに民間の駐車場がありますが極僅かです。
東西線・東陽町駅下車 都営バス 約12分(都07 錦糸町駅行)
都営新宿線・西大島駅下車 都営バス 約15分(両28 葛西橋行)
JR総武線・錦糸町駅下車 都営バス 約15分(錦14系統 門前仲町行)
JR総武線・亀戸駅下車 都営バス 約12分亀24甲)境川経由 葛西橋行(亀29)境川経由 ナギサニュータウン行 
いずれも 【北砂2丁目】下車

不便では有りますが、懐かしい昭和の香りのする街です。
sunamachi
その頃の当方です、まだ少年と呼ぶには幼過ぎる頃です。(汗)



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2005.07.26

僕が少年だった頃(18)-みじんこ獲り

mijinko我が家に金魚がやってきて、ふと思い出したのがミジンコのことでした。
子供の頃は廻りも金魚池ばかりでしたし、よく金魚釣りにも行っていたので常に金魚を飼っていました。
子供のいる家では必ず金魚を飼っていたような気がします。
イトメは近くの養魚場にいって買っていましたが、ミジンコは自前で調達していました。
針金で輪を作り、母親の要らなくなったナイロンストッキングの先を縫いつけて作った捕獲網。
それを竹竿の釘で打ち付けて使っていました。
目の前は蓮田と養魚池ばかりなので、それこそ何処に行ってもミジンコがいたような気がします。
養魚池の植え込みに子供達だけが知っている秘密の抜け道なんてのがあって、そこに入ってミジンコを捕っていました。
本来は養魚池の中のものですから捕っちゃいけないんでしょうけど、養魚池の人も金魚を捕らなければ大目に見ていてくれていました。
ミジンコを繁殖させるための栄養分に人糞も撒かれていて、夏の暑い日にはかなりいい匂いをたてていましたっけ。
そんなある日いつものようにミジンコを捕りに池の畔にいたのですが、運悪く滑って池に嵌まります。
丁度肥やしを撒いて2日も経っていないときでした。
慌てて岸に這い上がりますが頭からつま先までう○こまみれ。
匂いに耐えながらベチャ、ベチャっと足音をたてて家に帰ります。
「かあ~ちゃん池に落ちた」
当然家には入れてもらえず家の外の水道で水を掛けられます。
それが夏の日だったか冬だったのかが思い出せません。
それ以来一人でミジンコを捕りに行くのは禁止されました。

小学校の理科の授業で顕微鏡で初めて見たのはミジンコでした。

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2005.06.10

僕が少年だった頃(17)-三角乗り

「三角乗り」と言ってもピンと来る人も少なくなっていることでしょう。
昭和40年代初頭、世間では高度成長という名の下にどんどん豊かになっていく時代でも有りました。
当時の我が家も廻りの世帯と同じように高度成長をしてくれていれば、「三角乗り」も経験しない子供だったろうと思います。
しかしながら集団就職で上京して以来、コツコツと鉄工職人をして門扉など作っていた父はアルミという新素材の工業製品にそのシェアを奪われていました。
都内の下町の長年勤めた鉄工所がなくなり、埼玉の八潮市の工場に変わります。
中川と大場川が合流するするその土手のそばに工場が有りました。
地図で見てもそんなに遠いところでもないのですが、今から40年ほど前のそこは子供心にもかなりの田舎でした。
雪が降ると土手にトタン板を持ち出してのそり遊び。
たまに雪で隠れている肥え溜めにどぼっと嵌まる大人もいました。
同じ所を通っても子供の体重では沈まなかったんじゃないのかなと思ってます。
電線一つ無いのでその土地でたった一回経験した正月に凧揚げが出来ました。

夏休みになっての引越し。
今の子供のように塾や習い事など無縁の当時の子供達、皆外で遊んでいます。
工場の近くにたまたま同級生になるA君がいてすぐ友達になりました。

その仲間達、みんな自転車に乗れて自分の自転車を持っていました。
移動するのにも自転車で行くわけです。
その頃の僕はまだ自転車に乗れませんでした。
一緒に行動するわけですから、どうしたかというと走るのです。
自転車に付いていけるようひたすら走ります。
まぁよく走ったのですが、ちょっと遠くになると付いていけなくなります。
ゆっくり漕ごうとか待っていてあげようとかは子供の感情には有りません。
置いていかれます。

夏休みが終わる頃、そこで両親に「自転車が欲しい」と懇願するのですが世間から置いてけぼりの我が家には自転車1台買う余裕が有りません。
父親がコレに乗れと持ってきたのが工場で使っていた荷台付きの大人の自転車でした。
フレームも太くそして重い、サドルにはごついバネが有り、たしか皮で出来ていたような配達用自転車。
当時120cmくらいでしたから当然フレームをまたげるわけも無くその日から三角乗りの特訓です。
フレームの下に脚を入れ漕ごうとしますが何遍やっても転びます。
元々不安定な乗り方なので転ぶ時も変な感じで脚を挟んだりで、痛いのなんの。
あざと擦り傷とかさぶたと、転ばなくて済むようになったのは2週間後。

友達の自転車に付いていけるようになったのはそれからもう少し経ってからのことでした。

そして一冬越えて我が家は江戸川へと引越し。
その後しばらくその自転車を乗り続けていたようないない様な、三角乗りは脚が届く頃まで続けていましたが、それがいつなのか分かりません。

ふとコンビニで見かけた「トトロ」の人形で、その中に出ていたカンタが「三角乗り」してたっけと思い出した僕の「三角乗り」。
三角乗り、今出来るのかな~。


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2005.03.26

僕が少年だった頃(16)-同窓会

sotsugyo先日、同窓会の便りが届きました。
まぁ便りと言っても電話なのですが、地元の小学校の同窓会。
前回の同窓会が開かれたのは僕が20歳、成人式の前後ということで実に四半世紀ぶりの同窓会となります。
クラスのメンバーを思い浮かべると不思議とフルネームが出てきました。
数えて35名、はて?クラスは一体何人いたんだろうの素朴な疑問。
40名近くいたような記憶もあるのですがどうにも思い出せません。
普通は小学校-中学校と同じ顔ぶれになるのですが、今と違って学区域が広かったので3つの中学に分かれて行きました。
その中にはまぁ初恋の子もいた訳でして、運良く同じ中学に進むことになります。
小学校時代にはとても仲のいい子でした。
ところが中学に進むと、思春期の照れのようなものが出てきてしまって話すことが出来ない。
3つの中学に分かれて行くのにそれぞれ50%40%10%の割合で一番少人数、数少ない幼馴染。
その子は中学に入ると益々可愛くなり、男子生徒からモテモテの状態。
僕はと言えば、当時でも珍しい男子全員の坊主頭。
その上慣れぬ環境にストレスが溜り、円形脱毛症になります。
坊主頭に円形脱毛症と言うのは結構辛いものがあり、どうにも隠しようがない。
それが気になって気になって益々悩んで直径1cmが5cmくらいまで大きくなる。
一つならまだしも、2つ3つとくるとそれはもう酷い自己嫌悪。
そんな状態では親しかった初恋の君との距離は遠くなるばかりでした。

その夏に彼女から暑中見舞いが届きます。
嬉しいので一生懸命返事を書いた記憶があります。
しかし中一・中二・中三とその距離は遠くなるばかりでした。
結局一度も同じクラスになることもなく、「好きです」の言葉一つ言うことも出来ず別々の高校へと進みます。

高校に行き、駅で同級生だった女の子に会ったとき聞かされた話があります。
その同級生は僕の初恋の子とも仲が良かった。
初恋の彼女、中一の時の僕の暑中見舞い、中学在校中ずっと自分の鞄の中に入れてくれていたそうです。
「私の宝物なの」と言ってはよく見せられたのよと。

あの時、もう少し勇気があったなら、もっと素直に慣れたなら、自分の気持ちが正直に出せたならば・・・・。
悔やんでも悔やみ切れない少年の恋。

「悲しいことがあると 開く皮の表紙  卒業写真のあの人は やさしい目をしてる・・・」と始まる荒井由実の「卒業写真」はまさにタイムリーな歌だったりします。

その後約30年、中学卒業以来彼女とは会えていません。
男女の仲に甘酸っぱいものが残る懐かしい時代の名残。
素直に成れなかった少年の頃。

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