2012 夏 湯川にて
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先週の湯川に続き、今週の忍野も修行僧な様な釣りに成りました。
そうなるのを自分に課している訳では有りません。
とにかく朝が白々して周りが見える様に成って、そこそこ釣ったら早上がりしようと思っていたわけで、
5時前に富士急の2番。
朝からの雨も9時には止むとの予報、かなり降ってはいますが。
雨の忍野・・・・ええ慣れたもんです。
偶にライズはあるもののカディス・カゲロウは飛んでません。
やはりテレストリアルの釣り、ライズポイントは対岸。
しばらくして無かったロールキャストの釣り、すっかり飛ばなく成ってます。
ひとしきり投げますがあんまり反応が無いので金田一橋へ。
金田一橋は今月に入ってからの撤去工事ですっかり跡形も無くきれいに無くなってました。
対岸のブラウンが付いている所は復活したんだろうか・・・。
岸際に流すも反応無し。
ロールキャストの勘を戻すには良い距離感。
またまた富士急2番。
テレストリアルからミッジに。
ようやく一匹。
どうにも遠目で出る大きめの鱒に合せが効きません。
目の前の流れにラインが引っ張られて伸びている分、合わせてもラインが水面から切れず、遅れた感じなので鉤掛かりしない。
フライを替えようとラインを引いている時にガボンと出て合せすら出来ない。
目の前の流れで大きめのアントをくわえたのは茶色い鱒(イワナ?ブルック?)、フライをくわえて水面に潜って行く様までしっかり見てた。
いやその鱒の大きさに見とれて合せをし忘れた。・・・・・情けねえ。
ならばと堰堤下に。
レインウエアを脱いでしまったのでずぶ濡れ。
水量多め。
もういつもの場所にも魚っ気無し。
釣り開始から延々7時間ロールキャストの繰り返しで腕がパンパンに成って来たので食事休憩。
とにかくごろりとしたいので大臼荘。
うどん頼む前におつまみが並ぶのでここでやはりビール。
車に戻って2時間ほど仮眠。
忍野もすいてますよ。
富士急の3番。
2番にルアーマン、いやあよく釣ってました。
この季節はルアーの方が分がいいのかしら、とにかく釣ってました。
釣り飽きたらしく居なくなったので再度2番。
テレストリアルは一発勝負の感有りで、一度かけ損なったり、見切られたりすると次は無い。
その度にフライ交換。
芋虫フライのオレンジ色に反応が有るのだけど掛けられない。
ノーネームなフライ。
蟻のようで蜂のようで甲虫のようで・・・
ここでやっと二匹目、このあと一匹同じようなサイズを追加しただけ。
19時どっと徒労感。
引き上げ際に初めて見ました。
富士急の10番での鱒へのドッグフードやり。
養魚場並みに鱒がバシャバシャしてました。
帰りは渋滞を避け道志道。
初めて人差し指にマメが出来た。
嗚呼!おおらかな釣りがしたい・・・・。
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朝のうち雨の忍野。
九時には止むと言う予報を信じて釣り開始。
金田一橋の撤去作業も終わり、綺麗サッパリ何も無くなっていました。
忍野に来て雨でない日は無いので慣れっこには成っている。
自衛隊橋の大臼荘にて昼食。
注文以外のおつまみが出ちゃうのでどうしてもビール飲んじゃいます。
テレストリアル系フライにしか反応せず、一度合わせ損なったりしたり、見切られると二度目が無い。
何度も大物が出てはいるのだけど、鉤がかりせず。
蟻のような蜂の様な、甲虫のような・・・そんなフライに二匹目がようやく出た。
朝五時から十九時まで、ロールキャストを繰り返していたので、うではパンパン。
合わせ損なったのに大きいのが多かった、結局三匹のみの貧果の1日。
帰ったら娘が熱出してるし・・・・・。
釣りは日曜より土曜日だね。
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7月はキツいっす。
まずは妻の命日が有って、
先週の13日は誕生日で、
今日は結婚記念日。
一日中、歯を食いしばっていた感じで今頃に成って顎が痛い。
娘にまだ見たことの無い結婚式のビデオを見せてと言われていたけど、今日は無理だな。
そうなんだよな〜、喪が明けたんだよね。
前を向いて歩いているつもりなんだが、本当にこっちが前かと思う事がある。
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EPOさんの曲を久し振りに聴いた。
良い歌出していたんですね。
沁みる歌だな~。
僕が20代の頃に良く聴いていた。
ドライブのBGMにするのに、心地よい歌が多かった。
確かBESTも持っていた筈なのだが。
この曲が聴きたくてね。
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今週は忍野の予定でしたが、仲間が湯川に行くと言うので急遽変更。
いろは坂ではWETな路面で車が横向きましたが・・・。
4時半出発で6時40分着、なかなか2時間は切れません。
この日は3人で待ち合わせ。
人生色々、様々なストレスを湯川で発散すべく埼玉に茨城に神奈川県から集まる。
齢50を越えたオヤジダンサーズ(笑)
居そうな所、実績の有った場所、ポイントポイントで流して見たけれど、反応無し。
yoshizoさん曰く好調だったカディスの木周辺も音無しとのこと。
僕も好きなテラスのしたに入るけど、流したカディスやカゲロウフライはことごとく無視され、どうにもならない。
偶に見かけたライズも一回有ったきりでその後はぴくりともしない。
なんと言っても水棲昆虫のハッチが全く無い。
空中を飛んでいるのは数首のトンボに数種の蝶々だけ、カディスもカゲロウもさらにはこの時期に見るオドリバエも中流域では見かけない。
yoshizoさんはS字・ストレートへ、僕は中流域の最上部へ、な かさんは上流部へ別れてブルックを探しに行く。
昨年の二つの大型台風や今年の春の大雨は、湯川に多大な影響を与えているのだと思う。
かなり良くなってきていた梅花藻だったが、今年はことごとく土砂に埋まり、それは水棲昆虫に多くの影響を与えている。
モンカゲロウの不発、これほどモンカゲを見なかった年は近年に無い。
マルツツの大量流下も今年は無い。
全て流れてきた土砂に埋まり水棲昆虫の棲家、そしてブルックの隠れ場所を覆ってしまった。
珍しく中流域の最上部、しかし余り来た事が無いのでアプローチの場所が分からず、難儀する。
水流が流れ込んでいる所で今日3回目のライズを発見。
腹は減って居るんだろうな。
でもハッチしていないカゲロウやカディスを流しても、それは偽物とブルックはしっかり分かっているんだろう。
昼までに3人で一匹と言う悲惨さ。
昼用に持ってきたビールが苦く感じる。
上流部は釣り人沢山、やはりポイント難民に成っているとのこと。
青木橋に戻りながら考える。
何かは食ってる、食べたい意欲は有る、でも偽物は嫌だ。
ブルックはおチャッピーだけど偏食家だ、青木橋のベンチにムネアカオオアリが止まる。
やっと答えが見えた。
テレストリアルだ。
しかしアカハラアントのフライもライツロイヤルもリアルアントも肝心な時にフライBOXには無い。
かろうじてフォームアントが数個。
テラス上でやっとブルックに会えました。
コンデジで撮ってスマフォで撮る頃にはもう嫌ですとブルックは落ち着かない(笑)
ネットの中でのんびりとはして居てくれない。
何とも貴重な一匹でした。
photo by な か、さん
居そうな場所で何度か早合わせしすぎでスっぽ抜け。
かなり気持ちが焦っている。
アントに出る、ブナ虫フライだって出てくる。
しかし釣れない、技量不足だね。
イブニングに下流域。
ささ濁りの流れでは有るが、カディスやオドリバエが水面上を飛んでいる。
ライズが始まる、しまった立ち位置の目前でのライズ。
身動きできず、垂れ枝の下で何度か合せ損ない、最後は弾切れでデカ目のフライを寸前で見切られた。
断念。
19時納棹。
難しい季節に成りました。
mixiでのつぶやきその1
昨日の湯川の光景。
木道では軽やかな歓声といい匂い(なかさん曰く)をさせたカラフルな山ファッションの山ガール。
片や川のなかには苦渋に満ちた顔で酒臭い汗と下半身泥まみれの、一見川の中に立つ杭にしか見えないアースカラーのオヤジーズ。
誰か山ガールが釣りをしたくなるような爽やかさを振りまいて下さい。
mixiでのつぶやきその2
昨日の湯川の光景その2。何が釣れるんですか?の問いに「カワマス」と答えても、「はああ〜ん」と分かった様な分からない様な反応がほとんど。
なのでスマフォの画像を見せて、「岩魚の親戚ですけど、オレンジや赤の点が入っていて綺麗でしょ。」とか説明して時間潰してました。
いかに暇だったかと言う事ですね。
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先週の4日は妻の一周忌でした。
この一年あっと言う間に過ぎた一年でした。
でもとてもとても長く感じてしまう一年でした。
書きたい事は沢山あるのに、この十日間書いちゃ消しの繰り返し。
無宗教での密葬だったので特に一周忌の法要は予定せず、会社は休んで静かにその日を迎えるつもりでしたが、家にいる事を知った妻の友人がご弔問に見えてくれました。
午後はようやく妻の両親が自宅に来てくれた。
だけどまだ娘には会えないと言う悲しい状況です。
孫の中にみえる娘の面影を見るにはまだまだ辛く、かなり時間が掛かる様です。
本当なら孫の顔を観て元気出して欲しいのですが、それが出来ない。
元気出して下さいと言っても元気の素は娘だった。
夕方には娘の担任の先生と三者面談。
色々心のケアもお願いして有り、電話も何度かいただいてたりして助かっています。
塾に行く娘と別れ、近くのスーパーで買い物。
塾に娘を迎えに行き、回転寿司屋で食事。
そんな風に静かに過ぎた一日でした。
否が応にも納得させられ、3年も前から覚悟させられていた妻の死でしたが、いなく成ってしまった後の事は考えつかないでいました。
亡くなったあと10月までの任期終了まで、横浜までずっと車で通い続けた。
車中、JUJUの「YOU」がいつものBGMだった。
泣くにはもってこいの場所だった。
それでも仕事中ふと気付くと涙が出ている時が有るのでベランダに出てタバコを吸うふりをしていた。
見上げた空のどこからか妻が見ていてくれている様な気がしたけど、姿は見つけられなかった。
当たり前の事だ。
EXILE / もっと強く
情けない話ですが、妻の事をずっと考えた一年でした。
あの時分かり得なかった妻の気持ちが今に成ってやっと分かったことすら有る。
自分の事を運命の男性と言ってくれて向かってきてくれる女性は生涯にそう何度も無いと言う事。
この話を妻から聞いて一番驚いたのは、実は娘だった事。
誰もが妻にかけた言葉は「貴方に会えて良かった、ありがとう」と声を掛けてくれて事。
人を励まし、いつも元気を分け与えていた事。
満面の笑顔しか記憶に残して居ないこと。
泣けるドラマを見て、自分の心を吐き出してごまかしながら泣けるからと言っていた。
「懸命に、
精一杯生きる!
歩き疲れても、
休みながら、
ずっと歩いて頑張ります。
弱音を吐いている時間がもったいない。
○○○、へなちょこな○○○、
へなちょこなりに頑張れ!」
妻より
発病後、アロマテラピーと心理カウンセラーの資格を取ろうと頑張っていた。
彼女なら言い聞き手になれたと思う。
西野カナ/ たとえどんなに ・・・
ラグビーやってた奴なんて、不器用に前へ進むしかできないんだよね。
どんなキラーパスもらったってそのパスは受け止めるんだよ。
妻へ
元気です。
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前日の大雨、止むはずの雨も午前中には少しの晴れ間も有ったが午後からはさらに土砂降り。
轟音轟く湯滝でした。
小滝から入渓。
滝下で遊んで行こうと思ったら反応無し。
嫌~な予感がし始めた。
導水菅の上のほうでたるみにいた魚をサイトフィッシングで掛けた。
ホンマス20cmネットに入れず即リリース。
今思えば貴重な一匹デシタ。
平水より20cmは高い水位で、ちょっと油断していると何度か流されそうに成りました。
ブルック達は流されまいと底に張り付いている感じ。
ドライなんぞにはメモくれません。
小田代橋は新しい橋に架け替えられるそうで、只今工事中。
小田代橋は好きなポイントの一つでこの橋も来年には見られなくなります。
小滝下からの上流域の釣り、泉門池まできましたが魚っ気無し。
実績の有るポイントもすかされます。
珍しくフェザーウェイトを装着、確かこのリールの時は釣れないと言うジンクスを思い出した。
崩落痕。
次に大雨が来ると、根っこごと木が倒れそうな状態に成っています。
カワガラス。
口にはしっかり餌を銜えています。
ずぶ濡れに成っている自分をセルフタイマーで。
徒労感いっぱい。
夕マヅメにと覗いた赤沼橋下流は既にお汁粉状態。
それでもフライを投げてみたけど、どうにもならなく、6時半から19時まで。
へろへろなあ一日。
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土曜日は午後から深夜にかけてどしゃ降り。
日曜日は朝方雨は残るものの、9時位からは雨も上がると言う予報に期待。
濁りの入る中流域を避け、上流部に朝6時半から入る。
湯滝下はパスして小滝からの釣り、これが出ない。
少し下流で流れの緩い所にいたのをサイトフィッシング。
本鱒20cm一匹。
あまりに簡単に釣れたので写真も撮らず、ネットにも入れずリリース。
今にしてみれば貴重な一匹でした。
どこも通常より30cm近い増水。
底に張り付いているんだか何だか‥‥
どうにもならず、昼前は時々晴れ間もあり、良いかなと思っていたら、午後はどしゃ降りに近い大雨。
撥水の落ちたレインウエアで上半身は濡れしょびれ、敗北感一杯の1日となりました。
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この数ヶ月、昨年の時系列をずっと追ってしまう日々でした。 こんなにクドクド書く必要はないんじゃないか。 そう言われた事も有ります。 そっとしてあげなよ・・・・確かにその通り。 ただ妻が生きた証を遺して置きたかったーそれだけ何です。 もう妻の事を書くのはこれを最後にします。 振り返って悲しむのはきょうが最後。 そんなふうに自分の心にけじめをつけたいと思います。 |
「癌末期の妻が自宅介護中に激しい痙攣の後に意識不明。」
対応に出た救急隊員にこう告げた。
ささやかな平和な時間が破られたのは自宅介護を始めて12日後の6月23日の深夜だった。
充実はしていたがいつ何が起こるか分からない恐怖といつも戦っていた。
僕が電話をしている間、娘はずっと声を掛け続けて居た。
数分もしないうちに救急車が到着。
時間にしたらほんの数分だと思う、しかしこの時間はとても長く感じられた。
救急隊員そして救急救命士と8人の方が来た。
日赤病院への搬送を希望したが、意識レベルが低すぎるとの事で近くの総合病院へ向かう事に成った。
当直の医師にこれまでの病気の状態、発作の状況を説明した。
専門外で有る医師は「意識が戻る事はないでしょう」と言う診断を出した。
しかし明け方になり妻は蘇生した。
以下2011年6月26日の日記ー原文まま
目を覚ました瞬間、何故ここにいるのか理解出来なかったのだろう。
開口一番、「家に帰る」だったね。
自宅で訪問看護を受けながらの療養だけど、
金曜日の未明に突然の痙攣を起こし、意識を無くした。
白目を向いていく様子も手に取るように分かり、娘にとにかく呼びかけを続けてもらった。
完全に意識不明の状態。
119番通報。
「がん末期の患者
痙攣の後意識無し」
7~8分で到着、救命士も同時に行きますという返事。
娘に大至急着替えるように指示、どんな格好って聞くから渋谷から電車に乗って恥ずかしくない格好と答える。
予想していない病変に、パニクる。
前に通院した時に用意した診察券が見つからない。
救急隊の到着、8人くらいは来たのかな。
救急車に消防車も来た。
病状と現在の状況を説明、日赤に搬送の希望を出したけど、意識レベルが低すぎると近くの病院に搬送。
最初に病気を発見してもらった病院だけど、その後は何の治療も受けていないので、行く方は不安多し。
意識不明のままだが、心拍数・血圧・血流酸素濃度・呼吸には乱れ無し。
このまま意識は戻らないかもと救急の担当医から言われたが、朝方意識回復。
起きてみて会話してみるが、話の内容に乱れはない、心配した肝性脳症には至っていないようだ。
病院に着いて早々に、嫁の実家に電話を入れたが出てきた義父が「一応病院に行った方がいいかね」などと惚けた事を言っていると待合室で怒っている僕に、こういう事はおばあちゃんに言わなけばダメだよと娘にたしなめられる。
日中、日赤病院に連絡。
妻の希望も有り、転院の希望を出す。
新規に入院なので預り金やらリネンの契約など煩雑な手続きをして、義母に代わってもらい昼に帰宅、仮眠。
夕刻病気を見つけてくれた女医さんがたまたま非常勤の診察日で来ていたので、色々と話をさせてもらう。
3年前にレントゲンの画像を見せながら、「覚悟をしてください」と僕に告知してくれた先生である。
今はここを止め実家とほかの病院の掛け持ちで週イチだけここに来ているとのこと。
3年前の日赤での手術の報告をしたとき本当に喜んでくれた人である。
全ては日赤の先生の判断にも依るが、個人的な意見を素直に言ってくれた。
1-痙攣が起きるのは、肝臓の機能低下がかなり進んでいると考えた方がいい。
2-これが起き始めると自宅での介護では難しい。
3-点滴も高栄養なので、今の肝臓に負担をかける心配もある。
等々。
気持ち良さげに眠る君へ
君が望むのなら、家に帰ろうか。
6人の人に会えているから、もう誰にも連絡しなくて良いと言う。
6人って君の両親に、僕の両親、僕と娘と・・・それだけじゃん。
分かったよ、心配してメールや電話をくれる友人たちの対処は僕がするよ。
せめて最期の時までは意識を残しておいてくれよな。
意識がなくなったまま逝ってしまうのだけは止めてくれ。
気持ち良さげに眠る君へ
せめて来月の君の誕生日だけはお祝いさせてくれ。
目を覚まして、僕の顔を見た途端に放った言葉が「帰る」だった。
大変だったんだぞと妻に話す。
何故ここにいるのか翌理解出来ない様子だった。
朝方駆けつけて来てくれた義母に代わってもらい、入院の準備と経口タイプのモルヒネなどを取りに自宅に帰る。
僕たちが居ないとき、
ベッドで目をつぶって横に成って居た妻が義母にこう言ったらしい。
「どなたかお出でになりましたね。」
引き戸を開け誰かが入って来たのだと言う。
「誰も来てないよ」との答えに、「いいえ、確かに誰かが入って来る気配を感じました。」
家に帰れないのなら日赤病院に帰りたい。
妻がそう言ったのはその日の昼過ぎだった。
日赤の担当医に電話をし、転院を申し出た。
もうそんなに長くない事は重々承知しています、もし許されるならそちらで看取っていただきたい。
普通なら断られる話だったが、担当医はひとつ返事でベッドを空けてもらえる用手配するので帰っておいでと言ってくれた。
これは嬉しかった。
以下2011年7月2日の日記ー原文まま
週が明けた火曜日に日赤病院に転院。
介護タクシーを利用しての移動。
早々に転院の希望を出していたので、どこかゲストのような扱いだった。
どんな病気でどういう状態なのか、全く理解されておらず、不安いっぱいの4日間でした。
仕事を終え病院に駆けつけても、今日一日の様子が全く伝えてもらえない。
老人性の痴呆を患い、さらにどこかを患って入院されている患者さんが数名談話室に集められ食事をしているのだけど、「またこぼして」とか「また汚して」とかと看護師に叱責されている。
患者の親族だったら、それを聞いただけで悲しい気持ちに成ることだろう。
痛みが有り、預けてある経口のモルヒネ剤を出してもらおうとナースコールを入れても、長い時間放置されていてなかなか薬を出してもらえなかったとも聞いた。
通り一遍の挨拶を済ませ、即座に日赤病院に向かい昼前に到着。
再入院の手続きをしている間に、病院の情報誌を目にする。
そこには肝がん外科手術ガイドが特集されていた。
その中に幕内院長のインタビュー記事があった。
肝臓手術の世界的な権威を持つ幕内院長であるが、ひとりの患者から取り除いた腫瘍の数で186個が過去最高であったと書いて有った。
聞いたことある数字だと思ったら、それは妻の手術の時に聞いた数字だった。
世界的権威が最悪レベルの患者が妻だった・・・
そう思うと3年、こうして生きてこれたのは奇跡だったんだと思う。
自宅介護を始めると送り出してもらった部屋にまた帰った。
婦長さんが来た、ケア病棟の先生も来た、看護師さんやいろいろお骨折りしていただいた医療相談室の看護師さんが変わるがわる顔を出して、妻を迎え入れてくれた。
妻もホッとしたように自分の状況を説明していた。
皆が口々に「良かったね、自宅で過ごせて本当に良かった。」と言う。
「どうでした?」と聞かれるのではあるが、
「あまりに普通に過ごしすぎて、特別なことは何も出来なくて、朝起きない僕と娘をベッドの上に座って起きて~とか細い声を出して呼んでいたり、TV見て笑ったり泣いたり、って本当にふつうにしか過ごせなかったんです。それで良かったのかどうか。」と答えた。
「いいんです、ふつうが。それでいいんです。」
相談室の彼女は、そう言いながら僕の肩を揉んでくれた。
日一日、仕事帰りに寄ると何かしら新しく妻の体に付けられていく。
酸素吸入器
昨日は心電図。
管一本ずつ減っていくたびに退院が近くなっていった時と違い、
確実に何かが妻の中から剥落していって居るんだろうと思う。
水曜日にデジタルフォトスタンドを買った。
家族の10年分のデジタル画像を入れるつもりだ、それを枕元に置いて置こうと思う。
ようやく1000枚の画像がはいった。
本日金曜日の午前中に担当の先生から電話が入る。
「尿の量などから、臓器不全の状態が始まっている」と。
今のパパは
優しいオーラがいっぱい出てるよ。
だからママは少しでも長く生きたいって
思うよ。
ちっ
小学6年生の娘に言われちまった。
僕が今、妻の笑顔を思い出そうとすると、多分この時期のものなのだろう。
ベッドにちょこんと座り、「また明日ね」と言うと
満面の笑みで「うん」と答えてくれる、やせ細ってしまっているこの時の笑顔である。
沢山の笑顔をそれまでにもらっているはずなのに、思い出すのはこの笑顔である。
精一杯甘えて、全面的に信頼を寄せてくれている。
そんな気持ちで返してくれた笑顔だったから、僕の心に残っているんだろう。
7月2日土曜日
約束通り僕と娘と僕の両親と妻の両親で、病院に行った。
この日はまだまだ話が出来た、フェィスマッサージをしていると、気持ちよさそうだった。
この日の妻は寝返りを打つのも、ベッドを起こして態勢を整えるの全て僕に委ねた。
誰にもそれを要求せず、僕だけに頼んだ。
あす仕事が有るからと、帰る時間を何度も義父が僕に聞いてきた。
5時に聞かれ6時に聞かれ7時に聞かれて、「お帰りになるんでしたらいつでもどうぞ、僕は時間が許される限りここにいます。」
切れてしまった。
2011年7月5日AM3:00の日記ー原文まま
「Thank you for The (your) Smile」
妻が7月4日 18時15分に永眠しました。
一山超えて安心して面会に行った日曜日。
土曜日には少なかった尿の量も正常に戻り、一安心していましたが。
面会に行くと妻はうなされているばかりで、朦朧とする頭の中で浮かんだ単語を繰り返し声に出し続けていました。
家に帰りたいと思うのだろうか「かえりたい」は2時間以上間断なくうわごとのように繰り返されていた。
「もうちょっと良くなったら、またお願いして家に帰ろう」と何編も言い聞かせるのだが、それでもうわごとはくり返されていた。
明らかに肝性脳症が起きていた。
お茶を飲みたい、歯磨きしたい、拾える単語にはなんとか対応出来たけれど
ベッドがナースセンターの脇に移され、それでも意味不明のうわごとや唸り声は続いた。
尋常ではない様子に看護師さんと相談し、今日は地区のドッジボール大会で来られなかった娘を迎えに自宅に向かいトンボ帰りで9時半に病院着。
唸り声はその後2時間続いたが深い昏睡状態に入る。
何を話しかけても反応なし。
朝6時に尿が止まる。
担当医から尿が止まったら半日と告げられる。
土曜には102、日曜には70有った脈拍は64に落ちた。
これも徐々に下降線を辿り、50を着れば次第に落ちてやがては止まるであろうと伝えられる。
妻の声が聞きたくて、
妻の笑顔が見たくて、
目の開いた顔が見たくて、
冷たくなっている手足をさする。
午後4時脈拍が50を切ったと告げられる。
ベッドの右に娘が左には僕が位置し、懸命に呼びかける。
脈拍44、呼吸も途切れ途切れとなり、
「僕は君と結婚出来てとても幸せだった、
だからありがとう。
僕を信じて介護を任せてくれてありがとう。
里香の満面の笑みが大好きだった、いつも笑顔でありがとう。・・・・」
延々に妻に感謝の気持ちを伝え続けた。
もっともっといろんな言葉を掛け続けた。
脈拍がほとんどなくなりかけた時、妻の目が開いた。
そして「ありがとう。」としっかりした言葉が出た。
笑顔がそこに有った。
呼吸も脈もそこで止まった。
目を閉じさせ、髪をなでつけ
ナースコールを押した。
声を上げてオイオイ嗚咽した。
ひと目もはばからず泣いた。
看護師が来てさらに担当医を連れて来て死亡確認、18時15分。
日赤病院の看護士さんたちに整えられた妻の顔はとても穏やかで、素敵な笑顔になっていた。
自宅に連れて来たかったけど、介護ベッドや用品が置かれた我が家では受け入れるスペースがなかった。
斎場の安置所に届けて帰宅。
一人じゃ寂しいだろうからあす早朝早くに会いにいくよ。
妻へ、最期に素晴らしい笑顔ありがとう。
病が見つかり手術して一命を取り留めた2008年のクリスマスカードには、
今のあなたには最期の時に感謝の気持ちが言えないと書かれて居た。
痛かった、ずっとこの言葉は胸に刺さっていた。
君からの最高で
最後の最期のラブレター。
たった一言だけだったけど、なにものにも交えられない最高のラブレター。
「ありがと」
最高の言葉をくれてありがとう。
僕には最後にちゃんと♥マークが付いていたのが見えたぜ。
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