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2012/07/04

最後のラブレターーその2

この数ヶ月、昨年の時系列をずっと追ってしまう日々でした。
こんなにクドクド書く必要はないんじゃないか。
そう言われた事も有ります。
そっとしてあげなよ・・・・確かにその通り。
ただ妻が生きた証を遺して置きたかったーそれだけ何です。
もう妻の事を書くのはこれを最後にします。
振り返って悲しむのはきょうが最後。
そんなふうに自分の心にけじめをつけたいと思います。


「癌末期の妻が自宅介護中に激しい痙攣の後に意識不明。」
対応に出た救急隊員にこう告げた。
ささやかな平和な時間が破られたのは自宅介護を始めて12日後の6月23日の深夜だった。
充実はしていたがいつ何が起こるか分からない恐怖といつも戦っていた。
僕が電話をしている間、娘はずっと声を掛け続けて居た。

数分もしないうちに救急車が到着。
時間にしたらほんの数分だと思う、しかしこの時間はとても長く感じられた。
救急隊員そして救急救命士と8人の方が来た。
日赤病院への搬送を希望したが、意識レベルが低すぎるとの事で近くの総合病院へ向かう事に成った。

当直の医師にこれまでの病気の状態、発作の状況を説明した。
専門外で有る医師は「意識が戻る事はないでしょう」と言う診断を出した。

しかし明け方になり妻は蘇生した。

以下2011年6月26日の日記ー原文まま
目を覚ました瞬間、何故ここにいるのか理解出来なかったのだろう。
開口一番、「家に帰る」だったね。
自宅で訪問看護を受けながらの療養だけど、
金曜日の未明に突然の痙攣を起こし、意識を無くした。
白目を向いていく様子も手に取るように分かり、娘にとにかく呼びかけを続けてもらった。
完全に意識不明の状態。
119番通報。
「がん末期の患者
痙攣の後意識無し」
7~8分で到着、救命士も同時に行きますという返事。
娘に大至急着替えるように指示、どんな格好って聞くから渋谷から電車に乗って恥ずかしくない格好と答える。
予想していない病変に、パニクる。
前に通院した時に用意した診察券が見つからない。
救急隊の到着、8人くらいは来たのかな。
救急車に消防車も来た。
病状と現在の状況を説明、日赤に搬送の希望を出したけど、意識レベルが低すぎると近くの病院に搬送。
最初に病気を発見してもらった病院だけど、その後は何の治療も受けていないので、行く方は不安多し。
意識不明のままだが、心拍数・血圧・血流酸素濃度・呼吸には乱れ無し。
このまま意識は戻らないかもと救急の担当医から言われたが、朝方意識回復。

起きてみて会話してみるが、話の内容に乱れはない、心配した肝性脳症には至っていないようだ。
病院に着いて早々に、嫁の実家に電話を入れたが出てきた義父が「一応病院に行った方がいいかね」などと惚けた事を言っていると待合室で怒っている僕に、こういう事はおばあちゃんに言わなけばダメだよと娘にたしなめられる。

日中、日赤病院に連絡。
妻の希望も有り、転院の希望を出す。

新規に入院なので預り金やらリネンの契約など煩雑な手続きをして、義母に代わってもらい昼に帰宅、仮眠。

夕刻病気を見つけてくれた女医さんがたまたま非常勤の診察日で来ていたので、色々と話をさせてもらう。
3年前にレントゲンの画像を見せながら、「覚悟をしてください」と僕に告知してくれた先生である。
今はここを止め実家とほかの病院の掛け持ちで週イチだけここに来ているとのこと。

3年前の日赤での手術の報告をしたとき本当に喜んでくれた人である。
全ては日赤の先生の判断にも依るが、個人的な意見を素直に言ってくれた。
1-痙攣が起きるのは、肝臓の機能低下がかなり進んでいると考えた方がいい。
2-これが起き始めると自宅での介護では難しい。
3-点滴も高栄養なので、今の肝臓に負担をかける心配もある。
等々。


気持ち良さげに眠る君へ

君が望むのなら、家に帰ろうか。

6人の人に会えているから、もう誰にも連絡しなくて良いと言う。
6人って君の両親に、僕の両親、僕と娘と・・・それだけじゃん。
分かったよ、心配してメールや電話をくれる友人たちの対処は僕がするよ。

せめて最期の時までは意識を残しておいてくれよな。
意識がなくなったまま逝ってしまうのだけは止めてくれ。
 
気持ち良さげに眠る君へ

せめて来月の君の誕生日だけはお祝いさせてくれ。

目を覚まして、僕の顔を見た途端に放った言葉が「帰る」だった。
大変だったんだぞと妻に話す。
何故ここにいるのか翌理解出来ない様子だった。
朝方駆けつけて来てくれた義母に代わってもらい、入院の準備と経口タイプのモルヒネなどを取りに自宅に帰る。
僕たちが居ないとき、
ベッドで目をつぶって横に成って居た妻が義母にこう言ったらしい。
「どなたかお出でになりましたね。」
引き戸を開け誰かが入って来たのだと言う。
「誰も来てないよ」との答えに、「いいえ、確かに誰かが入って来る気配を感じました。」

家に帰れないのなら日赤病院に帰りたい。
妻がそう言ったのはその日の昼過ぎだった。
日赤の担当医に電話をし、転院を申し出た。
もうそんなに長くない事は重々承知しています、もし許されるならそちらで看取っていただきたい。

普通なら断られる話だったが、担当医はひとつ返事でベッドを空けてもらえる用手配するので帰っておいでと言ってくれた。
これは嬉しかった。
以下2011年7月2日の日記ー原文まま
週が明けた火曜日に日赤病院に転院。
介護タクシーを利用しての移動。
早々に転院の希望を出していたので、どこかゲストのような扱いだった。
どんな病気でどういう状態なのか、全く理解されておらず、不安いっぱいの4日間でした。
仕事を終え病院に駆けつけても、今日一日の様子が全く伝えてもらえない。

老人性の痴呆を患い、さらにどこかを患って入院されている患者さんが数名談話室に集められ食事をしているのだけど、「またこぼして」とか「また汚して」とかと看護師に叱責されている。
患者の親族だったら、それを聞いただけで悲しい気持ちに成ることだろう。

痛みが有り、預けてある経口のモルヒネ剤を出してもらおうとナースコールを入れても、長い時間放置されていてなかなか薬を出してもらえなかったとも聞いた。

通り一遍の挨拶を済ませ、即座に日赤病院に向かい昼前に到着。
再入院の手続きをしている間に、病院の情報誌を目にする。
そこには肝がん外科手術ガイドが特集されていた。
その中に幕内院長のインタビュー記事があった。
肝臓手術の世界的な権威を持つ幕内院長であるが、ひとりの患者から取り除いた腫瘍の数で186個が過去最高であったと書いて有った。
聞いたことある数字だと思ったら、それは妻の手術の時に聞いた数字だった。
世界的権威が最悪レベルの患者が妻だった・・・
そう思うと3年、こうして生きてこれたのは奇跡だったんだと思う。

自宅介護を始めると送り出してもらった部屋にまた帰った。
婦長さんが来た、ケア病棟の先生も来た、看護師さんやいろいろお骨折りしていただいた医療相談室の看護師さんが変わるがわる顔を出して、妻を迎え入れてくれた。
妻もホッとしたように自分の状況を説明していた。
皆が口々に「良かったね、自宅で過ごせて本当に良かった。」と言う。
「どうでした?」と聞かれるのではあるが、
「あまりに普通に過ごしすぎて、特別なことは何も出来なくて、朝起きない僕と娘をベッドの上に座って起きて~とか細い声を出して呼んでいたり、TV見て笑ったり泣いたり、って本当にふつうにしか過ごせなかったんです。それで良かったのかどうか。」と答えた。
「いいんです、ふつうが。それでいいんです。」
相談室の彼女は、そう言いながら僕の肩を揉んでくれた。

日一日、仕事帰りに寄ると何かしら新しく妻の体に付けられていく。
酸素吸入器
昨日は心電図。
管一本ずつ減っていくたびに退院が近くなっていった時と違い、
確実に何かが妻の中から剥落していって居るんだろうと思う。

水曜日にデジタルフォトスタンドを買った。
家族の10年分のデジタル画像を入れるつもりだ、それを枕元に置いて置こうと思う。
ようやく1000枚の画像がはいった。

本日金曜日の午前中に担当の先生から電話が入る。
「尿の量などから、臓器不全の状態が始まっている」と。


今のパパは

優しいオーラがいっぱい出てるよ。

だからママは少しでも長く生きたいって

思うよ。

ちっ

小学6年生の娘に言われちまった。


僕が今、妻の笑顔を思い出そうとすると、多分この時期のものなのだろう。
ベッドにちょこんと座り、「また明日ね」と言うと
満面の笑みで「うん」と答えてくれる、やせ細ってしまっているこの時の笑顔である。
沢山の笑顔をそれまでにもらっているはずなのに、思い出すのはこの笑顔である。
精一杯甘えて、全面的に信頼を寄せてくれている。
そんな気持ちで返してくれた笑顔だったから、僕の心に残っているんだろう。

7月2日土曜日
約束通り僕と娘と僕の両親と妻の両親で、病院に行った。
この日はまだまだ話が出来た、フェィスマッサージをしていると、気持ちよさそうだった。
この日の妻は寝返りを打つのも、ベッドを起こして態勢を整えるの全て僕に委ねた。
誰にもそれを要求せず、僕だけに頼んだ。
あす仕事が有るからと、帰る時間を何度も義父が僕に聞いてきた。
5時に聞かれ6時に聞かれ7時に聞かれて、「お帰りになるんでしたらいつでもどうぞ、僕は時間が許される限りここにいます。」
切れてしまった。
2011年7月5日AM3:00の日記ー原文まま
「Thank you for The (your) Smile」
妻が7月4日 18時15分に永眠しました。

一山超えて安心して面会に行った日曜日。
土曜日には少なかった尿の量も正常に戻り、一安心していましたが。


面会に行くと妻はうなされているばかりで、朦朧とする頭の中で浮かんだ単語を繰り返し声に出し続けていました。
家に帰りたいと思うのだろうか「かえりたい」は2時間以上間断なくうわごとのように繰り返されていた。
「もうちょっと良くなったら、またお願いして家に帰ろう」と何編も言い聞かせるのだが、それでもうわごとはくり返されていた。
明らかに肝性脳症が起きていた。
お茶を飲みたい、歯磨きしたい、拾える単語にはなんとか対応出来たけれど

ベッドがナースセンターの脇に移され、それでも意味不明のうわごとや唸り声は続いた。

尋常ではない様子に看護師さんと相談し、今日は地区のドッジボール大会で来られなかった娘を迎えに自宅に向かいトンボ帰りで9時半に病院着。

唸り声はその後2時間続いたが深い昏睡状態に入る。
何を話しかけても反応なし。

朝6時に尿が止まる。
担当医から尿が止まったら半日と告げられる。

土曜には102、日曜には70有った脈拍は64に落ちた。
これも徐々に下降線を辿り、50を着れば次第に落ちてやがては止まるであろうと伝えられる。

妻の声が聞きたくて、
妻の笑顔が見たくて、
目の開いた顔が見たくて、
冷たくなっている手足をさする。

午後4時脈拍が50を切ったと告げられる。

ベッドの右に娘が左には僕が位置し、懸命に呼びかける。
脈拍44、呼吸も途切れ途切れとなり、

「僕は君と結婚出来てとても幸せだった、
だからありがとう。
僕を信じて介護を任せてくれてありがとう。
里香の満面の笑みが大好きだった、いつも笑顔でありがとう。・・・・」
延々に妻に感謝の気持ちを伝え続けた。
もっともっといろんな言葉を掛け続けた。

脈拍がほとんどなくなりかけた時、妻の目が開いた。
そして「ありがとう。」としっかりした言葉が出た。
笑顔がそこに有った。
呼吸も脈もそこで止まった。
目を閉じさせ、髪をなでつけ
ナースコールを押した。

声を上げてオイオイ嗚咽した。
ひと目もはばからず泣いた。

看護師が来てさらに担当医を連れて来て死亡確認、18時15分。

日赤病院の看護士さんたちに整えられた妻の顔はとても穏やかで、素敵な笑顔になっていた。
自宅に連れて来たかったけど、介護ベッドや用品が置かれた我が家では受け入れるスペースがなかった。
斎場の安置所に届けて帰宅。
一人じゃ寂しいだろうからあす早朝早くに会いにいくよ。

妻へ、最期に素晴らしい笑顔ありがとう。

病が見つかり手術して一命を取り留めた2008年のクリスマスカードには、
今のあなたには最期の時に感謝の気持ちが言えないと書かれて居た。
痛かった、ずっとこの言葉は胸に刺さっていた。

君からの最高で
最後の最期のラブレター。
たった一言だけだったけど、なにものにも交えられない最高のラブレター。

「ありがと

最高の言葉をくれてありがとう。
僕には最後にちゃんと♥マークが付いていたのが見えたぜ。

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