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2012/06/02

六月第一土曜日

過去9年間、娘の通った幼稚園・小学校と運動会の有る日だった。
それまでは奥日光の湯川が上流部だけの釣りから、そこに住むブルックたちが下流へと移動して中流域でも釣りが楽しめるので自ずと湯川に仲間が集まる日でも有った。
この9年間は運動会の為に場所取りをして、一日中ビデオとデジカメを首に掛け娘の姿を追う一日だったね。
昨年は除くでは有る。
食物を経口摂取できなくなり、血管アクセスデバイスを左胸に埋め込んだのが5月23日。
これで少しは延命出来るかと思っていたが、想像していた以上に彼女の肝臓は弱っており黄疸も出始め、ビリルビン値は危険な状態を示していた。
肝機能低下が著しく肝性脳症も出てきており意識障害も出て居た。
入院中の妻の具合がかなり悪くなっており、6月4日の運動会まではもたない可能性があるとも伝えられて居た。
もう運動会に行くとかいけないとかそういう状態では無いとの事。
入院先の日赤医療センターの医療相談室の看護師さんがそこで動いてくれた。
意識が曖昧な中、「行きたい」「行きたい」をうわ言の様に繰り返しています、何とか行かせてあげられる方向で努力したいと申し出が有った。
小学校の運動会で自分の娘の演目ではないのに6年生の旗体操にはいつも感動して涙していた妻だった。
今年は自分の娘たちの番だ、ましてや女子では珍しく母親に元気を届けたいと紅組の応援団長を買って出ていた。
その運動会を観ないわけにはいかない、見せない訳にはいかない。
外出許可が出たのはギリギリの6月1日。
ただ普通に行かせる事はできないので、介護タクシー兼介護士の付き添い、普通の車椅子では無くベッドタイプの物をしよう、具合が悪くなったら即座に救急車で帰ってくること、想像出来る症状への対応方法など、多くの諸注意を看護師さんからレクチャーを受ける。

義父母からは猛反対を受けた。
かかってきた電話は頭から運動会に行くことを否定して居た。
そんな状態でもしものことが有ったらどうするんだ、親としては当然の反対だったろう。
もし運動会を見ている時に何かがあれば、全ては僕の責任です。
ただ万が一が起きないように万全な態勢で臨みます、それでも反対と言うなら明日病院に行って彼女の前に立ち「行かせない」と直接言って下さい。
僕は体調を考えたと言って彼女の最大の楽しみを奪う事は出来ません。

前日早退して病院に三時に到着。
明日の段取り、先の諸注意を看護師さんから受ける。
介護タクシーの手配は全て看護師さんが走り回って手配してくれていた。僕は朝彼女を迎えに行けばいいだけであった。
拙いマッサージだけど、妻の日課の中では僕のそれを受ける事が最大の楽しみにしてくれて居た。
面会時間ギリギリまで滞在して家路に、車でこの時間だと広尾から大和までは30分少しで走れた。
帰宅後運動会のお弁当作り。
5人分のお弁当なので時間も掛かり、朝4時近くまで掛かる。
そのまま寝ずに病院へ。
妻は興奮のあまり2時位に起き出して、化粧を始めていたらしい。既に身支度が済んで居た。
ポートから針が抜かれ、自由な身になって介護タクシーを待つ。
来ていただいた介護タクシーの方は元々介護士の方で、それから介護タクシーの世界に入ったとのことで、介護の仕方には長けていて助かった。
小学校の先生には妻の状況を手紙で知れせて有り、運動会も見に行きたいと言う事を娘から伝えて貰い、職員会でその旨を全職員に伝えてもらって居た。
小学校に到着。
大会本部の脇に車椅子スペースを設けていてくれていました。

応援団長の準備で忙しい娘をつかまえ、妻と記念撮影。
後でまた撮れるだろうと僕は一緒に写らなかったのだが、後の事を考えれば撮って置けばよかった。

義父母も到着、しかし自分の娘に良く来たねの言葉も無く、敬老椅子に移動してしまった。
僕の発言がよほど面白くなかったのか、その瞬間に今日は娘の写真撮影は割愛して妻のそばにいる事に専念しないといけない事を悟る。
夫として父として二つの顔で臨みたい運動会で有ったけど娘には済まないことをしたと思っている。
目の前で娘の選手宣誓が見れた。
応援団長姿も徒競走でここ数年に無く前の方を走る娘を見ることが出来た。
梅雨に入る前にしては珍しく暑い日となってしまい、妻は消耗。
ましてや大歓声は弱っている体にはしんどかったのだろう、横になりたいと言ってきた。
小学校側の配慮で冷房の効いた保健室を妻の為に用意してくれて、ベッドも自由に使わせてもらえた。
あの暑さのなか、保健室で休めたのは本当に有難かった。
昼食も、せっかくのサンドウィッチも妻は口にすることは出来なかった。
後は6年生の旗体操の時間まで精一杯体を休めせることだ。
介護人さんと会場内の移動やルートは綿密に打ち合わせをした。
余り無理させることも出来ないギリギリの状況だった。
旗体操の30分前に行動開始、保健室を出て僕が通路を確保しつつ前を歩いた。
小学校の運動会は所狭しと人がいるのでこの移動が大変なのである。
あらかじめ聴いて居た娘が一番良くみえる場所に移動、そこでは先生がたが場所確保の為に児童の席への脇に移動させてくれて、ベストのポジションでの最後の旗体操を見れた。
小学校の卒業アルバムを見せてもらってちゃっかり娘と一緒に卒業写真に収まっている妻の姿を見つけた時は、泣けた。
あいつらしいやと嬉しかった。
5m前にいる娘の姿がなかなか発見出来ず、「どこにいる」と聞く妻の衰弱ぶりに僕は懸命に娘の居場所を伝えた。
さの衰弱振りが痛々しく、ビデオ撮影中は涙が止まらなかった。
旗体操を見終わるころには妻の体力は限界に近かった。
担任の先生のにお礼を言い、紅白の対決の結果を見ることなく帰る事を娘に詫びて、急いで介護タクシーに乗る。
もしかしたらもう家に帰って来る事ができないんじゃないかと思いがよぎり、トイレ休憩と家に寄ってもらう。
抱っこしてマンションの3階に楽々妻を運ぶ、介護人さんにコツを聞いた。
これは後で役に立った。
病院到着、病棟の看護師さんたちが変わる変わる顔を見せてくれて、口々に運動会に行けて良かったねと妻に声を掛けてくれた。
その日は体力消耗で眠るしか無かった。
翌日の午後に娘と病院に、看護師さんからは運動会の話ばっかりしていますよと教えられる。
この日は元気だった。
ベッドから起き上がって一緒に運動会のビデオを観た。
うつらうつらで見ていたのでビデオを観てようやく全容が分かったらしい。
運動会のビデオを見せるからねと医療相談の看護師さんと約束していたんだけど、この約束は実現出来なかった。

昨年の6月第一土曜日。
僕にとっては多くの方への「感謝の日」なので有る。
介護タクシーの介護士さんありがとうございます。
小学校の担任の先生、保健の先生、全教職員の先生ありがとうございます。
そして受分の業務以上に尽力を尽くしてくれた日赤医療センターの医療相談室の看護師さん本当にありがとう。
この方には最後の時に自宅で過ごさせてもらう為にさらなる協力をしてくれました。
介護とかケアとかの世界で論文も出している凄い人なのだけど、飄々としてその凄さをこれみよがしに見せない実にいい女。
惚れちゃいたい位でした。またいつの日かお会いしたいですね。
この日の妻の為に動いて頂いた多くの方に感謝の気持ちでいっぱいです。

僕が妻から最期の時に貰えた「ありがとうは、僕が妻から貰えた言葉だとおごった考えでいたけど、一年近く経ってみんなに伝えたかった「ありがとう」を僕が代表して聞いたんだと思うように成りました。

6月4日、早くも11回目の月命日を迎えます。

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