ラグビー元日本代表監督、宿沢広朗氏が死去(SANSPO.COM).
ラグビーの元日本代表監督で三井住友銀行取締役専務執行役員の宿沢広朗(しゅくざわ・ひろあき)さんが17日午後零時53分、心筋梗塞のため前橋市の群馬大医学部付属病院で死去した。55歳。
同銀行によると、登山途中に倒れて同病院に収容されていた。
東京都出身。葬儀・告別式は22日午前11時から東京都中央区築地3の15の1、築地本願寺本堂で。喪主は妻洋子(ようこ)さん。
宿沢氏は埼玉・熊谷高-早大とスクラムハーフ(SH)で活躍し、早大では2度の日本選手権優勝を経験した。
日本代表としてキャップ(国同士の主要国際試合出場回数)の数は3。
1989年から2年間、日本代表監督を務め、強豪のスコットランドから殊勲の勝利を挙げ、91年ワールドカップ(W杯)のジンバブエ戦で日本にW杯初勝利をもたらした。
日本ラグビー協会の強化委員長としてプロ化計画にも尽力した。 |
6月17日の夜のNEWSでラグビー元日本代表監督・宿沢広朗氏の死去を知るので有るが、その衝撃の大きさを自分の中で処理できずにいました。
僕がラグビーと言うスポーツに興味を持ったのはちょうど中学3年の頃で、当時バレーボール部に所属していたものの172cmの背丈では高校に進学してもそんなに活躍できる選手にはなれないだろうと思っていました。
体が小さくても出来るスポーツは無いかと捜していた時、冬の正月のラグビー早慶戦だったかな、大学ラグビーの試合を見たのでした。
確か脳震盪で倒れた選手がやかんで水を掛けられ意識が無いまま試合に復帰していく様子を見て、身震いした、そんな記憶が有ります。
急いでラグビーマガジンを買いに行き選手名鑑に目を通す。
大学のレギュラークラスの選手でも170cm位の人が沢山いて(ロックやNO・8は除く)、高校に進んだらまずはラグビー部に入ろうと決意したのでした。
当時ラグビー全日本はメンバーを見ても過去における黄金期だったように思います。
特にSHは近鉄黄金時代を築いた今里良三氏がいてその影に隠れるように宿沢氏の姿があった。
今里氏の活躍は代表キャップからも分かるように突出しているのだけれど、僕はこの宿沢と言う選手がどうにも気になって仕方が無かったのでした。
選手としては身長160センチ余り。当時のSHとしては、特に小柄だったわけではないが、肉体的に恵まれていたわけでもなくて、線の細さを感じさせましたが、防御網のスキをつくサイド攻撃の鋭さ。グラウンドの大半を覆うようなカバー守備の広さ。その持ち味は分析力と相手の一歩先を走る判断の速さに支えられていた。
よく動き小さい体でガンガン、タックルしていた凄い選手と言う印象が残っています。
当時のラグビーはアマチュアリズムの精神が残っていました、残っていても大学で活躍した選手は社会人ラグビーチームの強豪チームへ進んでさらにプレーを続けると言うのが全体の流れでした。
その中で宿沢氏は多くの社会人チームを有する企業からの誘いを蹴り、自分のやりたい仕事があるということで住友銀行(現三井住友銀行)へ入社。
彼のアマチュアリズムの精神の貫き方があまりに潔い物だったので、ずっと記憶に残る選手となっていました。
一企業戦士として、また一流の手腕を発揮していたのにもかかわらず、宿沢氏は日本ラグビーのヒノキ舞台に監督として戻ってきます。
1989年から91年まで日本代表監督を務め、強豪のスコットランドから殊勲の勝利を挙げ、
91年W杯のジンバブエ戦で日本にW杯初勝利をもたらした。
その後、早大監督を務め、日本ラグビー協会の強化委員長としてプロ化計画にも尽力した。
ラグビーに携わりながら、73年に旧住友銀行に入りロンドンなど海外勤務の後、主に市場部門を歩んだ。
同部門の収益を大きく拡大させ、その手腕を買われ経営幹部として将来を嘱望されていた。
00年に当時の住友銀行で最年少の執行役員に昇格。今年4月、取締役専務執行役員に就任していた。
|
企業人としての宿沢氏の考え方などこちら。
生き抜くサラリーマン (1)2足のわらじ・宿沢広朗氏に聞く
89年当時の全日本のメンバーは第二期の黄金期で太田・藤田・田倉のフロントローに加え林・大八木の強力ロックコンビ、梶原・中島・ラトウの走ってよくDFするバックロー、BKも時代の旬であった堀越・青木・吉田・平尾・朽木・ノフォムリ・山本と今考えても素晴らしいメンバーで挑んだスコットランド戦でした。
宿沢広朗のテストマッチより
これだけのメンバーを擁しても宿沢氏の頭の中では勝率3割だったそうで、その3割をいかに引き出すかを、秩父宮ラグビー場で練習するスコットランドチームが一望できるビルの一室からその戦術を練り上げたと聞きます。
そうして日本のラグビーファンが歓喜する見事な結末を呼び込んでくれたのでした。
宿沢氏に歯一度だけお目にかかったことが有ります。
劇的なスコットランド戦処理の3年後の2002年、某大学ラグビー関連の懇親会に我々TOMCATSのメンバーも同席することが出来、その時の客員講師が宿沢さんでした、仕事の関係で講演は聴くことが出来なかったのですが、その後の懇親会で少しだけお話しさせていただきました。
初めて憧れの人にお目にかかれた当方、何を話したか記憶にありません。
ただ思っていたよりずっと小柄な方だったと、おごり昂ぶりを一切見せない素晴らしい紳士でありました。

選手としては当時のラグビー精神のアマチュアリズムにこだわり、指導者・協会幹部としてマイクロソフト杯の導入、選手のプロ化と時代時代にマッチした柔軟な姿勢。
低迷する日本ラグビーに喝を入れるべく、いつかは日本ラグビー協会の理事として復帰されて欲しかった貴重な人材でした。
55歳、心筋梗塞、あまりに早過ぎるその死。
心のポッカリ穴が開いてしまった気持ちで一杯です。
故人のご冥福を心からお祈りいたします。
悔しい、ほんとうに悔しいです。
最近のコメント