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2004/09/14

僕が少年だった頃(13)-駄菓子屋もんじゃ


今でこそ昭和レトロブームにより復活している駄菓子屋さんですが、街から無くなってしまった時は物凄く寂しい思いをしました。
僕らの子供の頃は、学校のそばには必ず駄菓子屋が有りました。
文房具屋さんが駄菓子屋を兼ねていたと言ってもいいくらいでした。
駄菓子屋の奥には座敷がありそこは子供たちの社交場でもあり、隠れ家でも有ったのでした。
四角いちゃぶ台に大き目の鉄板、大体4~5人くらいで集まっていたように思います。
その頃のモンジャは10円か20円。
今のように具なんか入っていません、キャベツなんてもってのほか。
先にキャベツを炒めて土手を作るなんてことはありません。
ベビースターラーメンなんかがあるとチョッと贅沢で、桜海老なんてのが入ると超豪華というものでした。
うどん粉を水に溶いたものにソースが入っているだけですから、どんどん流れちゃう。
間違って力の強い友人のにくっついちゃうと余計に持っていかれます。
なのでハガシで懸命に流れていかないようにして、自分の陣地を守る。
低学年の子供はその輪に加わることなく、5~6年生が主で、6年生が居たりすると5年生は順番待ち。
同じような駄菓子屋さん4~5件あり、グループごとに行く場所が決まっていたものでした。
不思議と同級生の女の子の店には行かず、違う所に行っていました。
小学生も恋愛話を語っていて、同じクラスの娘には聞かれたくなかったんだと思います。
ジュるジュる、熱々を食べるも良し、ぱりぱりにしておせんべい風にするも良し。
不思議と中学生になる頃には、そんな駄菓子屋も無くなっていましたし、あっても部活で忙しく行かなくなりました。

【子供たちのおやつだったもんじゃ焼き】

もんじゃ焼きが東京の下町に誕生したのは明治の終わり頃、子供たちが集まる駄菓子屋さんが発祥といわれています。もんじゃ焼きは別名「水焼き」とも呼ばれ、簡単な食べものでした。材料そのものは簡素でも、当時家庭でマネのできない大きな鉄板の威力によって焼かれるもんじゃ焼きに子供たちは、新しい時代の到来と買い食いの楽しさを見出したものでした。もんじゃ焼きは、関東大震災(大正9年)以降、下町っ子の根強い人気に支えられ市民権を獲得しましたが、箱根の山を超える事なく東京のみのローカルな食べものとして定着してきました。

【もんじゃ焼きの名の由来】

その昔、勉学に和紙を使えるのは一握りの人たちでした。そこで和紙が使えない子供たちは、うどん粉を水で溶き、それを使って鉄板の上に文字を書いて学んだといわれています。その「文字」がなまって「もんじゃ」になったという説が有力です。その他にも、ヘラで文字を書く様にかき回しながら焼いたからとか、とらえどころがない「なんじゃもんじゃ」からきているという諸説もあります。もんじゃ特有のペイスト状になっているものをさらに薄く引き伸ばし、その まま放っておき、おこげになったところで、ハガシで鉄板から剥がすことで 「おこげパリパリせんべい」が完成する。

もんじゃ焼き ~いろんな具材でお楽しみください~
ソースはブルドック
月島モンじゃTOWN
月島は路上駐車すると、必ず捉まりますのでご注意の程を。
なんかもんじゃ焼が食べたくなりました、週末に家族で行こうかな。

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